相変わらず鈍い動きで口を開ける自動ドアの、けたたましいぼやき声が店内に響き、イアンと刹那の顔は一斉にそちらへ向けられる。
「遅れました。」
己の身体の上で、焦点が合わされるのを甘んじて受け止めながら、アレルヤは銀灰色の瞳で会釈してみせた。
「おう、アレルヤ。」
右手を挙げて返した店主が、「たかだか数分の遅刻くらいで気にするな」と笑った。
「それより。今な、この坊主が面白いこと言ってたんだぞ。」
「……」
背中をバシバシと無遠慮に叩かれて、刹那は牽制するような鋭い一瞥をくれたが、堅く結ばれた唇が解かれることはなく、イアンは取り留めの無いおしゃべりを続けることに成功した。
「テレビで見た人革商連会の頭が、お前さんに似てたとか。」
純粋が産みだす残酷さなど知らない子どものように、イアンは笑う。
喉に刺さった骨のような、小さな蟠りにこそなれど血を流すことはないその傷は、アレルヤの瞳孔の奥に、ほんの僅かさっと黒をよぎらせた。
しかし、穏やかな微笑みを貼りつけたまま、ゆったりと小首を傾げる。
深緑の1束が、流れるように揺れた。
「………そう、ですか…(彼は、またあの場所に帰って……)」
刹那はともかくも、おおらかなイアンは些細な変化に気づかない。(それがイアンの良いところだけれど)と、アレルヤは眉尻を下げて、くす、息を吐く。
お構い無しにコマを進める、無邪気なトーク。
「坊主の見間違いか、でなければ、アレじゃないかと思うんだが。なんだったかー…ド、ド………ドッペ」
天井を向いたまま首を回しながら、しばし逡巡した彼は、やがて、ポンと軽快な音を立てて手の平をもう片方の拳で叩く。
思い当たったらしい。
「おお、ドッペルゲンガー。」
何だそれは、と眉を顰める刹那へ、イアンは得意げに、
「古くから、この世には自分とそっくりな赤の他人が居るって民間伝承がある。しかも、そいつを自分で見たら、寿命が尽きちまうらしいぞ」
そう説明しながら、イアンは胸の前でだらりと倒した両の手を左右に振り、ひゅーどろどろ、と、ゴーストの真似をして戯けてみせた。
刹那は、猫のようにピンと目尻の跳ね上がった大きな瞳を眇め、呆れた表情で応えた。
「迷信か。」
「まぁな。」
子どものような大人と、大人びた少年のミスマッチなキャッチボールに、思わずアレルヤは、ふふ、と微かな笑い声を漏らして、だが、すぐにどこか憂いを含んだ真面目な顔に戻る。
「………(タイミングって、重なるものだな……)」
2人に聞こえないように独りごちたアレルヤの、瞬間、爪先の上を彷徨った視線は、意を決したように和やかな空気を射た。
「選択肢なら…もう1つ、ありますよ。」
「選択肢って、そっくりさんの話か?」
こくりと頷いたアレルヤの唇は、緩やかな下弦に湾曲した。
「双子。」
刹那が、は、と顔を上げる。
イアンはまだ的を射ていないようで、きょとん、と間の抜けた顔でアレルヤに続きを促した。
「双子……なんですよ、彼と僕。」
「彼
――
って、」
「その人革商連会の若頭です。僕の双子の弟、ハレルヤ。」
あんぐりと口を開いた店主の、筒抜けになった喉の奥から、
「あぁ?」
声とも息ともつかない揺らぎの音声だけが、だらしなく流れた。
「本当は、僕がなる筈だった。」
反対に、アレルヤの声は控えめながら、揺らぐことも、淀むこともない。
滔々と、舌だけが別の生き物になったようによく動いた。
「僕の罪と枷をハレルヤは全て引き受けたんです。」
「アンタに、罪……――?」
刹那が、静かに問うた。
「――
僕は1ヶ月前、組の男をこの手で……、撃った。」
迷わないアレルヤの、真っ直ぐな告白の重さを受け止めきれず、イアンの心底は、無意識の中話題を変えようと試みる。
ところで
――、と。
「お前さん、記憶戻ったのか?」
空気に乗って彼の只ならぬ動揺が伝わり、(真実を表わすことは、実のところ、他人に不必要に荷物を背負わせるだけの、エゴなんだけど)と、アレルヤは内心自嘲した。
(――
それは、ロックオンにも)
「いえ、初めから。僕は、たくさん嘘を吐いてた。」
「知ってるのか、あいつは、ロックオンは!?」
「昨夜、話しました。全部。」
「あいつ、何て言ってた…――?」
「ロックオンは………、」
何も言わなかった。
ただ、それでもなお、瞬間震えた掌の温もりを分けてくれた。
――
ほら。
やっぱり彼は、残酷な程優しい人だから。
*
*
「はあー……」
ロックオンは、大きなため息を肺から他所へ押しやる。
右手に乗せていた頬が無力に滑り、そのまま片腕で頭を抱える恰好になる。
デスクが、鼻先に触れ、その冷たさが心地良かった。
「なぁに、寝てないの?」
頭上から、鈴の音が降る。
突っ伏した顔を横に向け、目線だけ上げて声の主に答える。
「え、ああ……まぁ、その。」
ロックオンに有るまじき、覇気の無さと、苦虫を噛み潰したような渋面に、上司は失笑を漏らした。
キャラメルブラウンの髪がかかる整った横顔を、じ、と見下ろして、鋭い思考を巡らせたスメラギは、柳眉を少し上げて短く息を吐き出す。
「深追い、したのね。」
相変わらずお前さんの勘は怖いな、と、ロックオンは上辺だけ笑ってみせた。
もっとも、淡白な吐息にしかならなかったのだが。
「……いいのよ。そういう気持ち、分からない訳じゃないわ。」
そう言った上司は、ショルダーバッグを肩に引っ掛け、「少なくとも、貴方が、仕事以外に関心を持たないような、ドライな人間じゃなくて良かった」と、敢えて明るくウインクしてみせると、ハイヒールを鳴らしてドアへ向かう。
「お先。」
一見冷たいようだが、独り考えられる空間を与えることで、彼女なりに気を遣ってくれたのだろう。オフィスに残ったロックオンは、静寂を享受し、昨晩アレルヤの唇が象った密やかな打ち明けを、ぼんやりと反芻する。
アレルヤの語った、最大の衝撃は、1ヶ月前のこと。
そのカタストロフィーの始まりは、もう少し、前。
――
そう、1ヶ月と、少し前。
始められてしまった。
捻くれた性格を映して撥ねるブルーの髪を揺らしながら、大股でずかずかと近づいた男が、後退りするアレルヤの手首を捉える。男の爪が喰い込んで、チリ、と痛んだ。
「離してよ……は、な…せ!」
ガランと広く薄暗い天井に吸い込まれ、力無い悲鳴は、掠れて消えた。
「誰も来ねぇよ。こんな隅の部屋になんて。」
男は、く、と喉を鳴らした。燃えるような紅い瞳が軽薄に眇められる。
「…助けて、」
ハレルヤ…――!