ロックオン・ストラトス ―― 24歳、血液型はO型、趣味は読書と休日前のビール。
独り身だがそれを謳歌しながら、仕事も人付き合いもそれなりにスマートにこなす、所謂、一般的なデキるサラリーマンである…―― つもりだった。
しかし今、ロックオンはいつになく憔悴している。
「……俺、何してんだ。」
思えば、あの夜からすでに調子は崩れつつあったのかもしれない。
濡れそぼる彼を目に留め傘を差し出した、あの雨の夜から。
幼いロックオンへ家族が最期に与えてくれたのは、皮肉にも、独りで生きる強さだった。
失う苦しみなど、もう一生分味わった。
勿論人嫌いな訳ではなかったが、誰かと歩幅を合わせて手を繋いで一寸先も見えない道を歩いてゆくのは、懲り懲りだと、そう思っていた。
それなのに、アレルヤとの出会いは、そんなロックオンの頑なな思考を、いとも容易く溶かしてしまう。深い緑の髪を風に遊ばせた彼の、ほんの少しはにかんだような笑顔が、いつも肩越しに見えるのも悪くないと、思える程に。
その身体を、腕の中に納めてしまいたいと、思える程に。
しかし、その感情に衝き動かされるように、後先考える前に思わず伸ばした手は、想像だにし得なかった力で払われ、押し退けられ。
その全身で表わされた゛拒否゛は、無性に鋭くロックオンを抉った。
「また、すっかり冷えちまったな。」
電子レンジの中に忘れられていた唐揚げは、またしても熱を失い、心躍らされる筈の香ばしい香りもロックオンの鼻腔をチクチクと刺しながら、自責と言う名で蓄積された。
息が詰まる。
誰かを傷つけたまま夜を越すなんて、ロックオンにはできない。
誰かを、
誰かを ――…?
違う。アレルヤを、だ。
それが、エゴだと分かっていても、
「…………ッ…だめだ……」
ただ謝りたくて。
ロックオンは床に手を着いて勢い良く立ち上がり、アレルヤの残した風を追って、彼の閉ざした部屋の扉に縋りついた。
ダン ダン、と激しくノックしながら、中へ怒号にも似た叫び声で呼びかける。
「アレルヤ…!……悪かった…悪……ッ……ごめん…ごめんな、ごめん……っ」
勢い余って語尾を咳き込むと、くすんだニスが鈍く光る扉の向こうで、不安げに乱れる呼吸と躊躇う気配を感じた。
ロックオンは項垂れるようにがっくりと、握りこぶしを下へ降ろし、額を戸に擦り付けて ――、それでも、カラカラの喉に貼りつくような掠れた科白を、構わず続けて吐き出した。
「……、悪ぃ…もう、自分でもよく分からねぇ………けど、俺ときたら、お前さんのことを相当気に入っちまってたみたいだ。…は、はは……。男に急に抱きしめられて、その上、こんなことまで言われるなんて、気持ち悪いよな。…ごめん…な……。」
言ってしまった。
単なる気の迷いだと、自分で言い聞かせたはずなのに。
言ってしまった。
お陰で己の心を明確にすることはできたけれど、と、ロックオンは頭の隅で思った。
アレルヤを、意識を遥かに超えて、気に入っていたことを。
そして、その実、出会った瞬間から、じわりじわりと、この感情の増殖は始まっていたのだということを。
しかし、アレルヤの返答を黙って待つことはできず、ロックオンは、不安定にぶれる空気を、言い訳にも似た謝罪で繕った。
くるくるとよく回る舌に自身どこか唖然とすらしたが、自分の声が途切れたその時に、隔てた板の向こうから非難が浴びせられるのか、若しくは、気まずい沈黙に呑み込まれるのか ―― そのどちらが待っていたとしても、正直なところ、怖かったのだ。
だが、躍起になって言葉の防護壁に身を潜めようと努めるロックオンが、息を継いだ一瞬の狭間に、アレルヤの細い声がするりと滑り込んだ。
「違う、ん……です。気持ち悪いなんて………」
それは、ロックオンの予想を裏切り、いつも以上に静かで、まるで凪のように流れた。
「確かに、吃驚しましたけど…、貴方に怒ってもいないし、貴方を嫌いにもなってない……。」
扉越しであるがゆえ、ロックオンの鼓膜は彼の発する単語1つも聞き逃すまいと、その息遣いや喉仏の上下する音すら、余すことなく受け止める。
「……なれる訳、ないよ……。」
最後は殆ど、密やかな独り言か溜め息のように、そっと波に浮かべられ心許無げに漂った。
「貴方の優しさは、残酷です。」
「…アレルヤ……?」
それまで凪だった海面が、微かに揺らめくのを感じ、ロックオンは顔を上げてドアノブに手をかけた。
鍵はかかっておらず、扉は容易く口を開く。
1歩半ほど離れた場所に、アレルヤは立っていた。
どこか淋しそうに、諦観すら眸の奥に揺らめかせながらも、真っ直ぐにこちらを向いて、立っていた。
「アレ、ル…ヤ……」
少しだけ温まりたいと思って縋ったマッチの火に、あっという間に燃やし尽くされてしまったみたいだ、と呟いて、
「もう、限界です。」
アレルヤは、ふ、と、銀灰色を細めた。
いつもならば癒しの効果さえ持つそれも、今日は酷くロックオンの胸をざわつかせる。
「僕の全てを、聞いてくれますか。」
唇が描く柔らかな下弦の弧とは反対に、眉根を寄せる彼の顔は、微笑んでいるのにも関わらず、自分が先ほど息が詰まりそうだった時と殆ど同じくらいに苦しそうにも見えたのだ。
(きっと、抑えきれない感情が、溢れだす寸前なんだろうぜ……。)
「ああ、全部聞くよ。」
ロックオンが1歩前に出ると、彼が半歩下がる。
「他人に触れられるのが怖いのか?」
小さく肩を竦めたアレルヤは、質問には敢えて答えず、たどたどしい告白を始めた。
「本当は、記憶なんて無くしてないんです。」
「そう………か……。」
アレルヤの剥き出しの感情を知りたい。
だから、自身は感情を押し殺そうと。
ポーカーフェイスを貼り付け、ロックオンは冷静を装う。
「僕は、嘘吐きで、」
ふいに、アレルヤの手がロックオンの手首を掴み、顔の高さまで持ち上げた。
皮膚が触れる瞬間、彼の思いの外熱い掌が、小刻みに震えているのを感じた。
「はしたない、」
アレルヤの意図が読めず、ロックオンは導かれるまま手の力を抜いて任せる。
紅い舌をチラつかせながら自身を吐露する唇がそっとその指に近付き輪郭を辿った。
これでは、まるで、他人に触れられるのが怖いと言うより、寧ろ…――。
(誰に飼い馴らされたんだ。)
それでも、決して表情を崩すまいと努めるロックオンの手をすぐに解放し、一度、きゅ、と口を結んだアレルヤは再びゆったりと睫毛を上げた。
銀灰色の雲が碧い空を覆う。
「―――、人殺しです。」
不覚にも、ロックオンの虹彩は、大きく揺れた。
* *
きゅ、きゅ、と薄っぺらな布で、ショーケースの中の電球を拭いていた刹那は、
「………テレビか。」
唐突に独りごちた。
狭いレジの中、伝票の束を片手に鉛筆の芯を舐め、うんうん唸りながら売り上げと睨めっこをしていた店主が、顔を上げて眼鏡を光らせる。
「お?どうした、刹那。」
「前にニュースで見た人革商連会の頭が、アレルヤに似てたのを思い出した。」
バサ、と音を立ててレジ台の上に伝票を置いたイアンは、訝しげに眉を顰めた。
「人革商連会って…、それ、お前………。不動産やら娯楽施設やらでここ最近ぐんと成長してるが、裏じゃかなりアコギな商売してるって噂の組織だぜ?……まあ、ワシもワイドショーで見ただけだがなぁ。」
が、すぐに、「そんな悪い噂の絶えない組織の頭が、あのアレルヤのはずがない」と肩を揺らす。
思わず笑いが込み上げる ―― それ程までに、アレルヤの手に黒い泥がこびり付いていることなど、考えられなかった。
それは、刹那も、同じらしい。
「似てただけ、だと……思う。」
オレンジ色の子猫が跳び付き戯れて ――、そうして転がり始めた毛糸玉は、解けて解けて、一本の糸になるまで止まらない。