チン、とトースターから飛び上がるイギリスパン、深く焙煎されたブラックコーヒー 、フライパンの中でジュウジュウ音を立てる目玉焼き―― 広めの1LDKに広がる朝の香りに呼び起こされ、少し濃い色の瞼がぴくりと震えた。
「………ここ、は……」
薄く開いた瞳に朝陽を吸収しながら、独り呟いて上体をゆっくりと起こす。
熱の余韻に怠く重たい身体を操るのは多少億劫ではあったが、それでもカーテンの向こうで燦々と輝く太陽の光と、食欲を促す香りに包まれた、ふかふかのベッドは青年の心を擽り、遠い日に忘れ去ってしまった甘い目覚めを思い出させた。
毛足の長いカーペットに素足の爪先を下ろすと、見覚えの無いパジャマを身に纏っている自身に気づく。
橙色の地に明るいグリーンのチェックが織り込まれた綿のパジャマは、よく見ると、3番目の釦から下が掛け違えられていて、長さの違う裾を、つい、と、軽く引っ張りながら、彼は思わずくすりと笑った。
「そう言えば、行く当てもなく雨に打たれてたんだっけ。頭がズキズキして座り込んだ矢先に、誰かが手を差し伸べてくれたのをぼんやりと覚えてる……。」
ウィスパーボイスを喉から流しながら、上手に繋げられない思考を接ぎ合わせながら、釦を外し、また、留める。
今度は左右の裾が真っ直ぐに並んだ。
カーペットの心地よい触感を、ぱふ、ぱふ、足の裏で楽しみながら、温かい香りの源らしき隣の部屋へ続く扉に手をかけた。
キィ、と呻いて開いたその隙間から顔を出すと、ダイニングルームの中心にどっしり構えた、モダンでスタイリッシュなテーブルの上に置いたコーヒーを時折口元に運んで啜りながら、チェアの背にもたれたロックオンが、左手に持った新聞をペラペラと捲っていた。
「ああ、起きたのか。」
遠慮がちに覗く青年に、ロックオンは新聞を無造作に折り畳んで、ふわりと微笑みを向ける。
「お前さん、寝ていなくて大丈夫か?」
「ええ、もう平気、です。」
ロックオンは軽やかな動きで立ち上がると、青年を掌でテーブルへ招き、朝食の盛られた皿を、コト、と置いた。
「砂糖とミルクは?」
「ブラックで……。」
じ、と見つめるロックオンの視線に小さく身じろいだ青年は、
「僕を、助けてくれたんですよね。…あの、あなたは……?」
興味深そうにくるくるとよく動く銀灰色の瞳を細めて、小首を傾げた。
湯気を立てるマグカップを「熱いから気をつけな」と手渡しながら、簡単な自己紹介をしてやる。
「俺はロックオン・ストラトス。しがない営業マンだ。それから、ここは俺の城。今日は都合よく俺もオフだしな。まあ、ゆっくり休むといいさ。」
ロックオン、と微かな声で反芻して、コーヒーを、こくり、と1口飲み下した青年に、今度はロックオンが疑問符を投げかける。
「で?次は、お前さんについても聞かせてくれるのか?」
その問いに、瞬間、躊躇うように頼りなげな視線を彷徨わせた青年は、俯き気味に口を開いた。
「名前は…、アレルヤ。」
「アレルヤ、ね。」
相づちで続きを促すと、アレルヤは、つ、と瞼を伏せ、彼の細く長い睫毛が頬に陰を落とした。そして僅かな沈黙の後ゆっくりと首を振る。
「……昨日の夜までのことは…あまり、覚えてないんです……記憶が曖昧で。」
「覚えてねぇ…のか?」
(着の身着のまま、一文無しでか……訳アリだな。)
頷いたアレルヤは、ふ、と顔を上げ、彼の縋るような表情が、ロックオンの翡翠色の瞳を射た。
「もし…もし、ご迷惑でなければ、少しの間ここに置いてくれませんか?少しお金を貯めて部屋を見つけたら、すぐ出て行きます……お願い……。」
「はぁ?」
「もちろん、ただでとは…僕にできることがあれば、何でもします。」
突然の思いも寄らぬ申し出に、我ながら素っ頓狂な言葉を吐き出したと、ロックオンは照れ隠しに自身の髪をくしゃりと撫ぜる。
面倒に巻き込まれるのはごめんだ、と、思いながらも、頭の片隅で仕事ばかりの退屈な日々の中に降って湧いたハプニングを面白がっている自分も、確かにそこに居た。
(その上、上司のお陰で人寂しくなってた所だ。とりあえず、今日のペットショップ行きの予定は取り止めだな。)
「まあ、俺ぁ別に構わねぇが。そうだな。ここにいる間、できるだけの家事でもしてくれると助かるぜ。」
「本当!?」
不安そうに翳んでいた銀灰色が、少しだけ煌めきを取り戻した。
物静かな青年だと思っていたが、笑うと、思いの外、人懐っこさと幼さを感じさせた彼に、ロックオンはこの奇妙な共同生活を楽しむ、確証の無い確信を抱いた。
「ところで、稼ぐアテはあるのか?」
「……いえ…まだ。」
明るくなっては、また、曇る。
空模様のようによく変わるアレルヤの表情は、ロックオンの唇の端を思わず綻ばせた。
漏れる笑みを噛み殺しながら、指を立てて1つ提案する。
「それなら、ブランチを食べ終わった後にでも、いいバイト先を紹介してやるよ。店主は気さくなおやっさんだから、きっとすぐに雇ってくれるぜ。」
「ありがとう……。」
―― みゃあ。
ふいに、2人の耳に軽やかな鳴き声が触れた。
「おっと、こいつを忘れてた。」
ロックオンが抱え上げたふわふわした塊にアレルヤは小さな歓声を上げる。
「かわいい猫ですね!」
「やっぱりお前さんは飼い主じゃなかったんだな。捨て猫か。お前さんの命の恩人だぜ。」
昨夜の出来事を事細かに話してやると、アレルヤは眉尻を下げ泣きそうな顔で笑い、子猫の顎を伸ばした人差し指の背で擽った。
すっかり乾いて本来の艶を取り戻したオレンジ色の毛玉は、心地よさそうに瞳を細めてごろごろと喉を鳴らした。
「この子は……?」
子猫の行く末を案ずるアレルヤに「こいつも今日から家族だな」と返す。
「1人増えるも1人と1匹増えるも同じだしな。拾った責任は取らねぇと。そうだ、名前でも付けてやったらどうだ。」
アレルヤはうんうん唸って思案に暮れた末、ぽつり、と、
「……ハロ。」
そう言って、子猫の小さな頭を掌で包んで撫でた。
「ハロ?由来は?」
ロックオンが聞き返すと、アレルヤは悪戯っぽく瞳を光らせて微笑む。
「なんとなく…語呂がかわいいから。」
「はは。良い名前だ。ハロ、お前さんもミルクでも飲むか。暖めてやるよ。」
キッチンへ向かおうと立ち上がったロックオンから、アレルヤの腕の中へとすっぽり収められた子猫は、くああ、と欠伸で返事をした。
「さあて、新しい1日が始まるぜ。」