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嗚呼、しとどに濡れよ
01
「じゃあ、逃げるか?どこか遠くへ。」
「え…、………うん。」
吃驚はすぐに昇華され、アレルヤはこくりと頷いた。
「俺も、後で追う。」
繋いでいた手が離れ、とん、と背中を押される。
「ほら、早く行け。」
「―― っ……待ってるから。」

しかし ―― 約束は、言葉が風に舞うと同時に掻き消え、離れた彼の左手が再び握り返されることもなく、アレルヤは独り雨の街へ駆け出した。


【 嗚呼、しとどに濡れよ 】


「あまり無理しないで、キリの良い所で帰りなさいね。」
ぽん、と肩に軽く手を置き激励を寄越したスメラギに、年度末の仕事の波に流されながら、パソコンと睨めっこをしていたロックオンは、スクリーンから目を離し会釈で返した。
営業部長のスメラギは、その男にも負けない卓越した行動力と話術によって、大手企業に押されていた売り上げを倍程に伸ばし、若くして部長にまで登り詰めたいわゆるキャリアウーマンだ。
しかし、オンとオフの切り替えはきちんとできる人間で、上司である彼女のそういった所が、ロックオンは気に入っていた。
「プレゼンの資料を作り終わったら帰りますよ。明日の休みには仕事を忘れたいんでね。」
「そう。じゃ、お先。今日デートなのよ。」
春色のトレンチコートのふわりと広がった裾を翻し、鼻歌混じりに扉の方へ向かう彼女の背を、「珍しいですね」と揶揄で追いかけると、
「失礼ね。」
扉の前で足を止めたスメラギは、振り返ると、紅い唇を少し歪めて苦々しく笑んだ。
「貴女みたいな頭のきれる美人を口説き落とせるなんて、どんな良い男がいたのかと。」
「あら。私、酔わされると結構弱いのよ。今度口説いてみる?そんなお世辞じゃなくて本気で、ね。」
「俺には貴女の相手は務まりませんよ。」
悪戯っぽく光る視線が絡まり、しかし、すぐに逸らされた彼女の瞳は腕時計の針を、ちら、と撫ぜた。
「もう時間だわ。ああ。貴方、動物でも買うと良いんじゃない?少しは仕事以外も見なきゃだめよ。」
ひらひらと振られた手の残像を残し、自動で開閉する扉がシュンと微かな音を立てて閉まった。
静まり返った部署内で、独り、再びパソコンに向かいカタカタとキーと打つ。
「…ふう。」
思わず口をついて出る大きな溜め息の塊に、自身苦笑した。
スメラギの下、会社に労力を捧げることに不満は無かったが、お陰でもう何年も恋人もいなければ、特別これといった趣味も持たずに仕事ばかりの日々を過ごしているのも、また、事実だった。
「動物、ねぇ。」
確かに、仕事に疲弊した身体を引き摺って帰宅した玄関先で、愛らしい動物が尻尾を振って迎えてくれる光景を想像すると、思わず顔も綻びそうだ。
たまには、仕事と仕事仲間以外にかまけてみるのも、いいかもしれない。
「明日の休みには、ペットショップでも覘いてみるかな。」
独りごちると同時に出来上がった資料をメモリに保存するとマウスをカチ、と押して、パソコンをシャットダウンする。
「さあて、帰るか。」
机の上に乱雑に散らばった書類を纏め、アタッシュケースに無造作に仕舞い込むと、椅子の背に掛けておいたスーツの上着を羽織り、腰を上げた。

* *

社内から出ると、外は夕闇の侵食を受け、すっかり暗くなっていた。
その上、雲間から青空が顔を出していた昼間とは打って変わって、しとしとと雨も降っており、春先とはいえ風が吹くと多少の肌寒さを感じる。
薄手のコートでも持って来なかった自分を恨めしがりながら、両の襟を掴んで寄せると会社の置き傘を開いて、足早に帰路を急いだ。
途中、駅近くのコンビニエンスストアーに立ち寄り、缶ビールにツマミを幾つかカゴに放り込む。
「…ったく。俺も大概くたびれたサラリーマンだな。」
自嘲しながらもやめられない、ロックオンにとって休日前の唯一の楽しみだった。
不器用な笑顔を貼り付けた、やる気の無い若い店員のガサガサと詰め込んだビニール袋を提げて、街頭のオレンジ色にぼんやりと照らされた歩道を歩き、駅から10分のマンションまであと少し。
やっと熱い風呂に入って、しっとりと包み込んでくれるレザーのソファに疲れた身体を預け、酒を片手にゆったりできると考えただけでも、歩くスピードが自然に上がる。
と、ふいに、雨音に混じってか細い鳴き声が鼓膜を震わせた。
「猫か?」
暗がりに視線を這わせると、道に沿って等間隔に整列した木々の合間に、雨に濡れそぼった子猫が見え、近づくと、ロックオンの気配に気づいたらしきその小さな動物は、顔を上げて、何か訴えかけようとしているのか、しきりに、みー みーと、叫んだ。
「こんな所で、どうしたんだ?」
水溜りを避けてしゃがみ込み、柔らかいトーンで呼びかけると、猫はぴょんと後ろに小さく跳んで、木の根元の大きな黒い影の方へ導いた。
「……人、間…?」
ロックオンは吃驚の表情を浮かべて、幹に寄りかかりぐったりしている人影を揺さぶった。
「おい、お前さん大丈夫か?こんな所で寝てるとあぶねぇぞ。」
呼吸に合わせて上下する身体の動きが掌に伝わり、死体ではなかったことに内心胸を撫で下ろしながら、アシンメトリーな前髪から覗く顔を見遣ると、どうやら、20歳やそこらの青年のようだ。
まだ季節が早いだろうTシャツ1枚とジーンズを身に着けていたが、それも雨に打たれ身体にべったりと張り付き、彼のシャープなラインを顕わにしていた。
ロックオンの声に、ふるり、と長い睫毛が揺れて薄っすらと左の瞼が開き、銀灰色の瞳が心許無げに宙を彷徨った。
「…ぅ…、……レ…ルヤ…?」
消え入るような言葉を紡いだ紫色に染まった唇は、半開きのまま、青年はロックオンの腕の中に倒れこむ。
首筋に触れた青年の呼吸の荒さと吐き出す温度が、濡れた所為か風邪のひき初めを感じさせた。
「ッあ、おい。………酔っ払いじゃなさそうだが…行き倒れか…?」
隣りで心配そうに鳴く子猫に、どうしたもんかと、肩を竦めてみせる。
「お前さんの飼い主じゃねぇのか。」
思案を巡らせるが、ここに捨て置き、1人と1匹、まとめて野垂れ死にされたのでは、気分も良くない。
ロックオンは、鼻から大きな息の塊を押し出すと、「よし」と呟き、
「とりあえず、近くだしな。うちで休ませてやるか。」
青年の腕を肩に回して抱え上げた。
「お前さんも来るか?」
子猫はぶるりと身体を震わせて水滴を散らすと、みゃあ、と笑った。
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