ぽろり――
ぽろ、り。
「つぁー…雨だ」
境介が手の平を額にかざし、天を仰いだ。
容赦のないカンカン照りで祐一を手荒く出迎えた太陽は、いつの間にか厚い雲に隠れている。
「通り雨か……」
とは――あくまでも、希望的観測だが。
土地の守り神にご無沙汰の挨拶を寄越し、締め括りの礼を1つ。そうして起き上がった顔に雨垂れを落とされたのでは、正す襟もない。思わず日頃の行いを振り返りながら、
「拝殿で雨宿りできないのか」
「それは、ダメー!バチ当たりだろ」
賽銭箱の置かれた板間を顎でしゃくった祐一が問うたが、ぶんぶん頭を振って、即座に却下される。
祖父に倣ってお勉強中のひよっこ神主様には、神に礼を尽くす場所で座り込んで雨宿りなど、以っての外だったようだ。
それなら、どうする? と、眉を少し上げ、黙したまま尋ねると、祐一の視線を受け止めた境介は、笑顔で神社の奥を指した。鬱蒼と茂る枝葉の間に瓦が見え隠れしている。
「俺ン家すぐそこだし。散らかってるけど、ここでびしょ濡れになるよかイイよな」
「ああ、助かる」
境介の家が、言葉に違わずごくごく近い場所にあったお蔭で、酷く濡れずに済んだのだが、それでもワックスなどは舞い落ちる雫に負けてすっかり役目を放棄したようだ。額や頬に纏わり付く髪を掻き上げ、借りたタオルに包んでわしゃわしゃと混ぜた。
久しぶりの幼馴染の部屋は、これもまた自白通り、仔猫が走り回ったような有様である。カーペット代わりに床を彩る漫画やゲームが器用な爪先によって左右に避けられてようやく、2人分のスペースが空いた。
ただ、神社のいろはやら神道の何たるかやら、得体の知れないタイトルの本だけは、きちんと机の上に並べられており、少しズレた几帳面さに吹き出してしまう。
肩を揺らす祐一を不思議そうに一瞥した境介は、ふと、何か思いついたように、
「なあなあ!」
耳元へと、喧騒を吹き込んだ。
「こっち、結構居るんだろ?」
「そのつもりだけど」
「その間、ウチ泊まれば……っつか、住めば良いんじゃね?」
な?な?――と、キラキラした眸を向けられ、祐一は思わず後ずさる。
「いや、……遠慮する」
「何でだよー!子どもの頃に戻ったみたいで、きっと楽しいって」
一言で理由を言うなれば、「絶対、疲れる」。
丁寧に話せば、「尻尾を千切れんばかりに振る大型犬のテンションには、たぶん、付いていけない」。
いずれを口にしても、しょげ返るであろうことは容易く想像できたものだから、「んー……」と気のない音だけ返し、ぐっと喉の奥に押し込めてやる。
すると、境介は意外な切り札を叩きつけて来た。
「ウチ、祐一の好きなゲームの最新作あるぜ?」
その言葉に、祐一の右眉がぴく、と跳ねる。
早朝から並んでもシビアな争奪戦らしいとワイドショーまで賑わせる話題のゲームソフト。根比べを厭い、スタート前に戦線離脱していた者にとっては、何と芳しい餌だろう。
祐一は、据わり悪そうに小さく身じろぎし、目線を逸らしながら呟いた。
「………お世話に…、ナリマス」
「しゃ!決まり」
ニカ、と浮かべられた満面の笑みに、薄っらと敗北感を感じながらも、そもそも、境介のおフザケに慌てて帰郷した時点で僅かばかりのプライドなど引っ剥がされてしまったのだから、今さら手の上で幾ら転がろうとも同じことだと、開き直る自分もいる。
かくして祐一の予期せぬ居候生活が幕を開けた。
◇◆◇
そう、幕を開けた――訳だが――…「……………?」
眉間に皺を寄せたまま瞬きを繰り返し、焦点の定まりきらない視界に喝を入れた祐一の目の前には、少年が1人。
「誰、だ」
唸るように訊ねると、祐一が目を覚ますことは予想外だったのか、ぎょっと開かれた瞼の中、濃い茶の虹彩が微かに収縮した。
「……う、あ……あの…、俺……」
溺れる金魚のごとくぱくぱく唇を開閉し、しどろもどろに発する。
未だぼんやりする意識の中に佇む見知らぬ少年が夢の住人でないことを確かめるため、さっと周囲に視線を走らせながらシナプスを繋ぎ、現状を把握する。
どうやら、いつの間にか境介宅の縁側で寝こけていたらしい。
そうだ。
居候生活2日目――幼馴染は、町内会の用事があると書置きを残して朝から出かけていたため、だらりと布団を抜け出し顔を洗った後、独りコントローラーを握って小一時間。CPUとの対戦にも僅か飽き、縁側に座って生温い風を受けながら緑を写して眸を癒していた所、睡魔に襲われたようだ。
自身の状況はおおよそ思い出した。ならば――次は、この少年。彼は、誰だろう。
次第に覚醒してきた頭を一振りし、じっと見つめる。
涼しげな絣の甚平に、盛夏にも関わらず薄っぺらいマフラーを巻いた出で立ちの彼は、見た所おそらく、まだ10を幾つか過ぎた――声変わり前、少女の可憐さと少年の精彩さを併せ持つ、危うい歳頃のようだ。
くるんと人形のように大きなアーモンドアイを、長い睫毛が囲んでいる。
他人の寝顔を覗き込んでおきながら何を恥じらうというのか、何度か伏目がちに瞬きを繰り返した少年が、未成熟な喉仏を、こくん、と震わせて、顔を上げた。
真っ向から視線がぶつかる。
上気した頬に、潤んだように揺れる眸。
後になってゆっくり考えれば、この表情で告げられる言葉など1つしかないと、分かったかも知れない。
「お、れ……、」
だが、幸か不幸か、祐一はそれが容易に嗅ぎ取れるほど色恋沙汰に通ずるタチではなかったし、見も知らぬ少年を目の前にしたこの状況では、予感できたとしてもすぐに「まさか」と打ち消しただろう。
その展開を、少年は、こじ開ける。
「あの、俺………、ユウイチが、好き……っ…、です」
祐一は瞠目し、やっとのことで、
「………………はあ?」とだけ応えた。
――好きって初対面でイキナリ言うセリフか?
――それより何より、俺男だし。
――しかも、たぶん……結構年上の。
――ってことは、年下に呼び捨てにされたのか、今。
――ん……?
――ユウイチ、って………何で、俺の名前を知って……?
頭の奥では、一瞬にしてこれ程の思いが錯綜したが、何一つ声にして示すことはできなかった。
思考が霞むのは寝起きのせいだけではないはずだ。
「俺、ずっとずっと会いたくて……それに、まさか……こうしてお話できるなんて、夢みたい…で………!」
語尾を震わせた少年は、手の平をぎゅうと握り込んで、そうして――、
「っお、わ…!」
「嬉しい、嬉しいです………!」
細い腕が首を抱く。
さらさら風に遊ぶ薄茶の髪をマーキングするように頬へ擦り付け、祐一の匂いを吸い込むように鼻を鳴らした。大型犬の境介とはまた違った種類の犬だ。
祐一はと言うと、腕の中の自身より一回り小さなイキモノをどうしたものか、途方に暮れながら唇を開いた。
「………悪い…けど、」
言葉を探しながらも素直に言う。
「俺はお前を知らないし、急にそんなこと言われても、……困る」
低めのトーンで響き、祐一の胸に顔を埋めた少年の肩が、微かに震えた。
飛び込んだ時とは反対に、緩慢な動作で身を離し、細い息に乗せて呟く。
「あ……そう、ですよね……」
口をきゅっと結んで、明らかにしょんぼりしている。
そうでなくとも小さな身体が一層縮こまって項垂れる姿は、祐一の良心をちくちく刺激した。
しかし、子ども相手だろうと、知らぬ人間に突然告白された所でまさか「こちらこそ宜しくお願いします」など言える訳もなく。
祐一はため息を1つ吐き出した。
「………お前、ゲームできる?」
「え……?」
「好きとか言われても、困る……けど、一緒に遊ぶなら、付き合ってやるから」
泣いたカラスが何とやら。一転して再びぱっと陽の射したあどけない顔に、調子が狂って意図せず口元が緩む。
喜怒哀楽が分かり易過ぎる…――が、嘘のない人間は少しほっとすると、祐一はぼんやり思った。
「はい!俺、花札なら得意です」
「花、札……」
現代、ゲームと聞いてテレビゲームではなく、そんな懐かしの遊びが挙げる子どもがいるなど思わなかった。纏う甚平と言い、やけに古風だ。
けれど、落ち込ませた罪悪感が残っていた祐一は、きっと田舎な土地柄が理由だと独り勝手に納得し、その案に乗ってやることにする。
幸いなことに、花札ならば祖母の富に教わったことがある。まだ覚えているだろうか。
少年の袂から、色鮮やかなカードが取り出された。
「そう言えば、名前聞いてなかったけど、」
「俺は…コマ。コマって、言います」
「………コマ」
祐一が鸚鵡返しに呟くと、コマと名乗った少年は擽ったそうに微笑んだ。