ガコンとネジが外れたような音をたて、錆だらけのバスの扉が開くと、途端、蒸し風呂に放り込まれたような熱気が身体を包む。祐一は茹だる暑さに眸を細めた。
緑茶の入ったペットボトルを散々呷った所為か、全身から排出される汗は止まることを知らず、じわじわ不快な湿り気がTシャツの上に羽織ったベストまで滲み、そして背中に広がる。
エアコンに囲まれた都会育ちの祐一には耐え兼ねる気温だ。スポーツバッグを抱えなおし、足早に歩き出した。とにかく、室内に入ることさえできれば、少しはマシだろうか。
それにしても、
「本ッ当に、田舎だな」
思わず呟いてしまうくらい、長閑な田園風景だった。緑が多いおかげで、酸素まで濃い――気が、する。
田んぼや畑を囲むように、雑木林に包まれた低めの山が四方に聳えていて、民家の影はまばらだ。
先程、ほとんど貸し切り状態で乗っていたバスの運転手も、日に4本しか運行しないのに、それでも誰も乗らない便もあるのだと苦笑混じりにぼやいていた。
しかし、幸いなことに自然に溢れる田舎道、木陰は掃いて棄てる程ある。それを拾って歩いていると、気まぐれに吹く涼しい風に励まされ、まるでロードムービーの主人公にでもなったような、もしくは、旅番組のナビゲーターになったような――道中を楽しむ余裕が生じ、熱風に砕け散っていたテンションも上向いてきた。
(8年……いや、9年ぶり、か)
青みがかった黒目が、1つ1つ記憶を探るように、過ぎていく景色を追いかける。その横顔は、所謂イマドキの青年で、本人にその気さえあれば夏やクリスマス前に血眼になって彼女候補を探す必要もないだろう。
山間ののんびりした風景の中では完全に浮く、半分だけ色が抜けきって金にも見える程明るい髪を、ワックスで無造作に流しているが、自身が派手なタイプという訳ではなく、担当の美容師に任せて眠っていた結果らしい。賛辞の押し売りをする美容師の相手をするのも面倒だからと、不本意ながらも過ごしている内いつの間にか定着してしまったその中途半端な金髪で、都内の大学に通って3年目になる彼――屋代祐一が、小学生の時に身を寄せていたのが、まさに今向かっている祖母の家だった。中学校に上がると同時に両親の都合で都心へ引っ越してからは、すっかり疎遠になってしまっている。
ところが、つい3日前、夏季休暇が始まると同時、見計らったかのように、祖母の具合が良くないようだから戻ってやれと、1通のメールが祐一の携帯電話を震わせたのだ。送り主は、この田舎に残って稼業を継ごうと奮闘しているらしき年下の幼馴染だった。
夏季休暇とは言え、「適当に都合を合わせて、友人と波乗りにでも行ければいい」くらいの漠然とした予定しか持ち合わせていなかった上に、世話になった祖母の様子も気になり、こうして数時間バスに揺られて来たのだが。
が――…、
「…………………」
その後もしばらく歩いて辿り着いた古い民家の縁側で、数人の子どもとむしゃむしゃ西瓜を食らい、吹き出した種の飛距離を競争している白絹髪のご婦人は、おそらく――具合が芳しくないと噂の、祖母、その人である。
(思いっきり、元気じゃねーか……)
唖然と口を開いた祐一の肩から、スポーツバッグのストラップがずるりと滑り落ちた。
騙された。
脳裏にチラつく、自分をこんな田舎くんだりまで召還した男の暢気な顔に、深い溜め息をお見舞いする。
だが、疲労の蓄積された身体に鞭打ってのとんぼ返りも癪だ。
緑に囲まれた休暇をしばらく味わう覚悟を決めて、種飛ばし競技場にリングインする頃、すでに皮に近く味気ない部分まで食べ終わっていた子どもたちは次の遊びを探しに散じており、1人皿を片づけ始めた老婦人に挨拶を放る。
帰郷するのも9年ぶりならば、祖母に会うのも当然9年ぶり。
どこか照れくささを含む控え目なトーンになってしまった。
「よ、ス」
低い声だが、彼女はすぐに気づき、振り返った。
目尻に刻まれた皺が濃くなる。
驚愕と笑みの同居する、まるで信じられないものを見た人間の複雑な表情だ。
「化、け……狐」
「はあ?」
(狐、って……ああ、毛色…、か?)
零れた言葉の意味を掴めずさらに唖然とするが、凝、と頭に縫い止められている、訝しさに染まった目線に気づき、失笑混じりに名乗ってやる。
「孫だよ。孫の、祐一」
「ゆ、う…一?……祐一!?」
「ヒサシブリ」
「あんた、どうしたの」
「具合悪いって聞いたから」
祖母は「違う」と言いながらぶんぶんと左右に振った掌で、仕上げに祐一の金髪をばしっと叩いた。
「違うよ。頭だ、頭。この頭、どうしたの」
化け狐の容疑が晴れても、やはり、奇抜な色が気になるらしい。
「染めたんだけど」
「最近の流行は理解できないね…せいぜい猟師に撃たれないように気をつけな」
手酷いお出迎え、痛み入る。
しかし、冷えた西瓜を引っ張り出すため冷蔵庫に向かった彼女の小さな背中は、ウキウキと弾む嬉しさを隠しきれない様子で、くしゃりと自らの頭を掻いた祐一は、ふ、と笑んで縁側に腰を下ろした。
(元気そうで、何より)
座った瞬間額から流れた汗が眸に入り、しぱしぱと瞬きを繰り返していると、
「富さーん、俺も、西瓜食べに来たよー」
間延びした声が降り注いだ。
入れ替わり立ち代わり、ここは、近隣の子どもたちのたまり場なのか。
滲む泪を拭って、顔を上げた。
「おま…ッ…境介!」
前言撤回。
西瓜に群がるのは、子どもだけではないらしい。
「あれっ、祐一!?久しぶりー」
件の幼馴染、米内境介が、満面の笑顔で「西瓜!西瓜!」と叫びながら軽やかに駆け寄って来た。
記憶に齟齬がなければ、祐一の4つ下だったはずである。ということは、高校を卒業する年の頃か。
餌に向かってまっしぐら、走り来る姿は、悔しいことに祐一よりも背が高く、例えるならば子どもどころか、大型犬のそれだ。
ただ、一言物申したかった相手の方からのこのこ現われてくれたのは好都合で。
祐一の隣に遠慮なく陣取った犬を、祖母に聞こえないよう小声で嗜める。
「あれのどこが具合悪そうなんだよ」
「あー…うん、」
境介は悪びれる素振りもなく、
「俺さ、久々に昔のアルバム見てたんだよねー。そしたら、祐一がいっぱい載ってるでしょ?」
(まあ、昔は毎日遊んでたからな)
「すっげー会いたくなっちゃってさ」
告白のごとき台詞に加えて、オマケの、舌をちらりと覗かせたぶりっこのような微笑みは、かわいいどころか神経を逆なでしたが、
「「てへっ」じゃねーよ……」
あまりにも平然と言ってのけられては、怒る気もしない。
「いいじゃん。夏休みなんだし!せっかくだから田舎満喫しなよー、な!」
「……………………」
「ほら、久しぶりにうちの神社にも来れば。いっぱい遊んだの、覚えてる?」
「………ああ」
もちろん、覚えていた。
境介の祖父が神主として管理する神社は、幼い祐一の1番お気に入りの場所だった。
静まり返った木々の中でぼうっとしている時間だけは、煩わしいさまざまをすっかり忘れてしまえたから。
「それなら、喉を潤してからお行きよ」
2人の間に、大皿山盛りの西瓜が置かれるやいなや、「待て」を完遂した大型犬は、両手に取った夏にかぶりついた。
「ありがとー富さん愛してる!」
「50年後に言いな」
数年ぶりでも変わらない、洗いざらしの温かさすら感じるやり取りに、境介の嘘吐きなメールを赦してやってもいいかと、祐一は心の中で呟き、赤く瑞々しい欠片を口に含んだ。
甘い甘い、夏の始まりの味がする。
◇◆◇
真昼でも木陰に囲まれ薄暗い境内は、それでも、厭な湿り気は帯びず、避暑地のごとく快適な環境を作り上げていた。跳ねるように歩く境介の後に続いて、ゆったりとじゃりを踏み、並ぶ燈篭を2つ過ぎた祐一を、密やかに見る双つの茶色のビー玉に、気づく者はいなかった。
足を揃えてちょこんと腰かけた少年は、眸を見開き、その茶の虹彩を心許無げに揺らした。ふっくらと柔らかそうな唇が震えながら、少し、開く。
「(今の……まさか、ユウ、イチ………?)」
祐一の名前を舌に乗せた途端――ぽろり、1粒の水滴が、少年の紅潮する頬を転がった。