キャラメルブラウンの細く柔らかい髪は、ぐしゃぐしゃと掻き混ぜられたおかげで鳥の巣のごとく縺れる。
「ッ…だー!やめだ、やめ!」
突如を破った大音声に気圧されたのか、壁にぶら下がり薄暗いオフィスを見守りながら黙々と動いていた秒針は、思わず身震いして同じ時を2度刻んだ後、慌てて体勢を建て直し未来を追った。
それと共に、しばし静止していたロックオンの時間も再び進み始める。
手を伸ばして掴んだデスククリーナーを一振り。
塵と一緒に積もった溜め息の残骸も払い去る。
「帰ろう」
どうすればいいか――否、自身、どうしたいのか。
そんなこと、独りで項垂れていたって見つかりっこない。
今はただ、アレルヤに会いたいと思った。
過ちを告白しようともまだ濁らない瞳と、告白したからこそどこか儚げに見える笑顔に、再び対峙したその時、自ずと答えへ導かれる気がした。
(…いいや、違うな……)
ロックオンは苦笑する。
答えはとうに見つかっているのに、どこかまだ、尻込みしているのだ。
巻き戻せない過去を償うための未来を歩く彼を、力強く支える自信などなかったから。
アレルヤが嵌めた枷の重さを垣間見て生まれた弱気も、迷いも、払拭できるほどの強い想いを、錯覚でもいい――彼に会って、確信したかった。
「本当に、いつの間に…俺は、こんなにも、」
独り呟きを残しオフィスの扉を閉める。
電子ロックが、カチ、と1日の仕事を終え歓喜の声を上げた。
溜め息混じりに見遣ったロックオンは、踵を返して、帰路へと足を乗せた。
* *
似ている。
あの夜に。
止みそうにもない雨に打たれ、青く煙る街路樹。
肌寒さこそすっかり消えたが、向かい風が雫を礫のように容赦なくぶつけてくるお陰で、歩くにつれ、傘を差してはいるもののスーツの湿っぽさは増す一方だ。
神様がいるとしたら――、
ロックオンは、ほんの僅かな間に起こった大きな変化を想起しながら思う。
なぜ、アレルヤと自分を巡り合わせたのだろう。
なぜ、家に誰かが居ることの温かさを思い出させたのだろう。
なぜ、純粋な彼に試練を与えたのだろう。
そして、なぜ、この男と鉢合わせたのだろう。
この男と。
「……?」
木々の合間に人影にさらなるデジャブを感じ、ロックオンは歩を止めた。
いつかの光景と違うのは、その人影が木に寄りかかりつつも立っていたこと。
物思いにでも耽っているのか微動だにしない。
深緑の髪を滑り落ちた水滴がぽたぽたと零れ、一定のリズムで爪先に弾けている。
「…ア、…レル……」
ロックオンの唇が薄っすら開き、後姿へ呼びかけようとした瞬間、男は酷く緩慢な動きで振り返った。
「……」
違う。
男の顔立ちは実にアレルヤと瓜二つだったが、表情――どころか、纏う空気の鋭さがまるで違う。
「あ……」
すぐに解った。
恐らく、この男こそがアレルヤの語った弟、ハレルヤ。
知っている、瞳だ。
汚い手も、醜い言葉も、知っている瞳。
寧ろ、進んで知ろうとしているのか。
兄のために。
アレルヤがいつも穏やかに澄んでいる訳が、きっと、ここにあった。
それにしても――、
よもやこんなに早く接触することになろうとは。
ロックオンの家に転がり込むまで逃げるように街を彷徨っていたと思しき青年の所在を、軽々しく口にするのは危険だ。
全てがうやむやになったまま、ただ、アレルヤは弟の元へ戻ってしまうだろうと、直感的に感じた。
安易に声をかけそうになった自身を後悔し、すぐに立ち去ろうと、言葉を濁して瞳を背けようとしたロックオンを、小さな波飛沫が襲った。
「冷…ッ」
ぴしゃ、と、左半身に水溜りの塊をぶつけられたらしい。
派手なブレーキ音を軋ませながら路肩に乗り上げて止まった、漆黒のセダンの仕業だ。
ロックオンから車へと視線を移したハレルヤは、不機嫌極まりない顔で、
「遅ェんだよ。このカス」
吐き捨てる。
「申し訳ないっす」
つんのめり地面に手を付きそうな姿勢で飛び出した、所謂舎弟達が悲鳴混じりの謝罪を並べ、それぞれに傘と上着を開いて駆け寄った。
「いつの間にか車がもぬけの殻になってたんで焦りました」
「雨の中…風邪ひきますよ」
濡れそぼるハレルヤの肩を包み込んだサテンのスーツが、内側からじわりと濃さを増す。
「てめェらが、さっさと探さねェからだろうが!」
一喝された犬2匹は、ひ、と喉をひきつらせて縮こまった。
「「す、すいません…」」
恐縮する舎弟になど興味がないとでも言わんばかりに、ハレルヤは視線をどこへともなく飛ばすと、
「だから、アイツ1人すら見つけだせねェ……」
軽く爪を噛み、低めのトーンで独りごちた。
勝手に始められたやり取りを呆気に取られながらた見ていたロックオンは、すぐに「この隙に乗じてとんずらだ」と、フェードアウトを試みる。
目論見はたった2文字で縫い止められ、敢えなく失敗に終わったが。
「待て」
爪先を後ろに引いて立ち去ろうとした肩が掴まれる
対する人間の封じ込めた深層まで透かし暴いてしまいそうな黄金は、妖しく煌めいた。
「お前……さっき、アレルヤって言いかけたよなァ?」
聞こえていたのか。
傲願不遜な口振りの追及。
首を傾げてかわしてみせる。
「え…ああ、いや。気のせいだろう」
余裕を見せたつもりが、一刻も早く金の鎖を引き千切りたくてたまらず、不器用に翡翠の視線が泳いでしまった。
だが、
「………そうか」
男は驚くほど呆気なく頷いて返す。
肩から冷たい手が離れた。
* *
仕事に関して言えば、期限が定められている方が好ましい。
急きながらもとっとと片づけた後の、ビールの旨さは格別だ。
だが、他人と分かり合うためには、どうだろう。
いくら時間があったとしても、果たして足りることなどあるのか。
それなのに――どうしてこうも、与えられない。
ゆっくりと分かり合うために少しずつ分かち合う時間を。
「もしかすると…反対に、」
ロックオンは呟く。
水溜りを踏んだ踵が、ぱしゃんと音を立てた。
少なからず予期せぬ別れがあることを知っているからロックオンだからこそ、今度は、後悔しないように。
限られた時の中で精一杯、感じて、考えて、伝えて。
そのチャンスなのかもしれない。
オートロックを手早く解除し、エレベーターに飛び乗る。
ドアが開ききるのも待たずに躍り出ると、人の気配を感知して、ぼう、と明かりの灯った廊下の先に、線は細いが決して小さくない身体をまさに猫のように丸めて蹲る、アレルヤが居た。
焦って絡みかけていた足の動きを緩める。
「鍵、なくしたのか?」
問いながら寄ると、彼ははっと顔を上げ、さらさら揺れる深緑の前髪の隙間から、ロックオンを窺った。
首をゆったり振ったアレルヤは、掌を開いて見せる。
「ちゃんと、ここに」
「それなら、どうして部屋の中に入らないんだ?」
「入り方が、分からなくなってしまったんです」
「?」
鍵を差し込んでノブを捻る、単純な話だ。
俯きがちに影を落として微笑む青年を困らせる原因が分からず、ロックオンは下瞼を引き攣らせた。
「僕の過去を知ったあなたが戻るまで、優しすぎる部屋でどんな顔でどうしていればいいのか、って」
「アレルヤ…」
「それなら、そっと出て行けばいいって思った。だけど、あなたを振り回した挙句消えるなんて、勝手すぎるでしょう?」
言いながら、「もう十分勝手なんだけど」と、アレルヤは肩を竦めた。
「ああ、よかった。もしもお前さんが居なくなってたら、必死で探し出して、一発ぶん殴ってたところだ。こんなに俺の頭をいっぱいにしておいて酷すぎるぜってな」
冗談めかして笑ってやると、眉尻を下げた彼は唇の両端を少し持ち上げて寄越した。
「とりあえず、ここじゃ人が通るかも知れねぇから、中入れよ、な?」
扉を開いて靴を脱ごうと視線を下げたロックオンは、灰色の玄関に黒い染みを見止め、帰り道のトラブルを思い出した。
「あー…そう言えば、びしょ濡れだった…悪いが、タオル取って来てくれねぇか」
躊躇いがちにも後に続いたアレルヤが、頷いて奥へと消え、すぐに戻ってくる。
タオルをふわりと差し出され、ロックオンの心に、彼への想いに気づいた瞬間が蘇えった。
暗い雨の中、虚ろな銀灰色はなおも色香を纏い、その裏側に見え隠れする儚さと危うさに惹かれた。
知りたいと思った。
そして、知って、後悔――した?
「アレルヤ、俺は……」
後悔せずに生きる術がないのなら、少しのそれなど、昇り続ける階段の途中、次のステップと真剣に向き合うための、踊り場にすぎない。
後悔して後悔して、そうして選んだ答えをいつかまた後悔しても。
それが、自分の心が指し示した真実なのだから――構わない。
「今までずっと独りで、濡れた手なんて振って風に晒せば乾くと思ってた。誰かに綺麗なハンカチを差し出されたって…ありがたいけどな、洗ってアイロンかけて返すのが面倒だと思ってたよ」
泥水を吸った裾をタオルで包み、叩いて乾かしながら、ロックオンは静かに押し出した。
「だが、お前さんのハンカチは、湿っててくしゃくしゃで、拭いても拭いても手が乾かないのに、酷く温かくて心地良いんだ。湿ってる訳を聞いた俺は、必死で乾かして、反対に…涙をぬぐってやりたくなる」
アレルヤは、睫毛を伏せロックオンの手先を凝視したまま、何も言わず、ただ紡がれる詞を聞いていた。
「なあ、お前さんのココは、まだ濡れたままだろう?」
タオルを持つ右手がぱっと放たれ宙を掻く。
立てられた人差し指が、アレルヤの胸を指し、触れる寸での場所で止まった。
惑う虹彩は小刻みに揺れ、しばし噤まれていた唇はおずおずと開かれる。
「本当にお人よしすぎるよ、あなたは」
くしゃりと破顔したアレルヤの腕を開いた右の指で掴むと、瞬間彼の身体がこわばるのを感じたが、構わず引き掻き抱いた。
他人の体温にこれほど安堵感じるのは初めてかもしれないと、アレルヤは思う。
「……だけど…――、」
ロックオンの鼓膜へ届くか届かないか、微かな吐息が空気に混じった。
兄を逃がして全てを背負った男が、再び近づく予感がする。
真実を伝えるために。
「大丈夫、だから」
ロックオンは、自分へ言い聞かせるように、抱きしめる手に力を込めた。