あの日。
自身のものではない部屋から出てきた彼の散らした涙は。
俺の不確かな直感に現実味を与えた。
部屋の持ち主は何も知らない様子で、ただ、毎日頭を悩ませている。
ざまあみろ。
――
と、言いたい所だが、負のオーラはこちらまで鬱屈させる。
俺は、ランチのトレーを手にして近づいた。
【 そして、僕らが知ったこと
】
(うーん…――分からん。)
ロックオンは、片肘をつき、掌に顎を乗せて盛大なため息を吐き出した。
空いた右手は、白いトレーの真ん中に居座ったピラフを、ぐるぐるとスプーンで掻いている。小さく刻まれた色とりどりの野菜が、バターを纏った米の中、溺れては救われ、また溺れて――そんな動きを、もう、小一時間繰り返していた。
「………汚い。」
ふいに肩越しに呟かれた冷ややかな声に、ハッと現実に引き戻され、首を回して声の主に焦点を合わせると、右肩の向こうに、湯気のくゆるトレーを持ち、赤い瞳を不機嫌に揺らめかせた青年が立っていた。
「おう、ティエリアも飯か?」
ロックオンはトレーを少し自分の方へ引き寄せ、隣に十分なスペースを空けてやった。
ええ、と抑揚のない返事を投げてトレーを置いたティエリアは、
「眉間に皺。」
と、言いながら、神経質そうに白い指で眼鏡を押し上げた。
「考え事をするなとは言いませんが、食事中にぼんやりするのはどうかと思いますね。下品かつ非効率的極まりない。」
唇の端を歪めて鼻を鳴らしたティエリアに、ロックオンは眉尻を下げて、はは、と苦笑する。
(迷惑はかけちゃねぇつもりだが、そんなに陰気な顔してたかな。)
「悪ぃな。」
呟く言葉にも、いつものロックオンの覇気は微塵も含まれていなかった。
「……何か、悩みでも?」
ティエリアは黙々と口に運んでいたピラフをミネラルウォーターで喉に流し、小さく息の塊を吐き出すと、退屈そうに質問を寄越した。
「驚いたな。お前さんが他人の相談に乗ってくれんのか。」
キャラメルブラウンの髪を揺らしながら揶揄するように応えると、驚く程端正な顔をした青年の鋭い視線に、じろ、と射抜かれ、ロックオンは自分の失言におどけて肩を竦める。
(おっと。余計なこと言っちまったか。)
「日常生活すら振り回すような悩みの種など、早いうちに摘んでおくべきだ。何より、ミッションの遂行に問題が出ては困る。それだけです。」
その薄く透き通った唇と同じくらい、「あなたの悩みになど薄っぺらい関心しか抱けませんが、チームのためです」と、あくまでも個人の関心ではないことを誇示するティエリアに、弄んでいたスプーンを皿の端に置くと、思考を巡らせながら口を開いた。
(何でもいい。小さい悩みでもぶつけて、この場を凌げれば…ああ、何でもいいんだが。)
「まあ、何だ。お前さんには別段関係ねぇ話なんだが………」
「アレルヤ・ハプティズム、ですか。」
企みを先回りして発せられた言葉に、ロックオンは、ぴく、と眉を震わせると、
「尋ねておいて、全てお見通しってか?そりゃねぇぜ。」
取り繕うように笑った。
その貼り付けられた笑顔をさらりと流したティエリアの視線は、ロックオンが気づかない程そっと、自分のトレーの上を伏し目がちに滑り、ぽつりと吐息のような囁きを零した。
「(だって俺は………見ているから。あの男を。)」
「何か言ったか?」
「いえ。何も。…それで、その友達――いや、恋人ごっこに亀裂が入ったいきさつは?」
ロックオンの疑問符をぴしゃりと否定したティエリアの口が、ごくごく自然に綴った単語を耳に留めたロックオンは、ぎょっと瞠目して慌てて返す。
「こ……恋人ってお前…っ」
「………。」
違うのか、と確認するでもなく。
ただ、じ、と見つめられる。
(やっぱり、こいつの前で隠し立ては無駄、か……。)
ロックオンは両手を掲げて降参してやる。
「…最近、避けられてんだよ。肝心の原因には、その…心当たりがなくてなぁ。」
「自分に分からないのであれば、本人に問い詰めるしかないのでは。」
「それを聞こうにも、目すら合わせてくれねぇんだが。」
いつになく弱気なトーンでぶれた語尾に、眼鏡の奥のルビーが眇められ、ふふ、とティエリアの鼻にかかった笑い声が響いた。
「たかが1度や2ど避けられたくらいで弱気になって、支障をきたすのならば、あなたにその関係を続ける資格はない。その程度の覚悟で、別の個体を繋ぎ止められるとでも思っているのですか。何度も大切な人を失ってきたあなたなら、そろそろ分かっても良いはずだ。身を引くことは、優しさと同等ではない。追うことは、エゴイズムと同等ではない。」
「違いますか」と顎を突き出して、くしゃりと奇妙に歪められた表情すらも神の造形のように美しい顔で、ティエリアは息を接ぐこともなく滑らかに己の哲学を紡いだ。
怒気を越して有無を言わさぬ圧力に飲まれ、ロックオンの瞼は縫い付けられたように瞬きすら忘れて、よく動く薄い唇を見つめた。
「その高尚大切に革で包まれている指は、ただ観賞用に飾られて、真っ赤な花を咲かせた生け花の枝ですか。」
と、ティエリアの華奢な掌にグローブの上から覆われ、指に筋が浮かぶ程力を込められる。
痛みよりも、革を通しても感じるその冷たさにロックオンは吃驚する。
冷たい手に体温を吸い込まれる感覚に、熱に浮かされたようにぼんやりしていた頭が、徐々に普段の明確さを帯びてくる。
「はは…そんなこと、とっくに分かってるつもりだったんだけどな。」
ロックオンは誰にともなく呟いて、すぐに解放されたその手で、乾ききったピラフを掻き込むと、無造作にトレーを掴んで立ち上がった。急に押しやられた椅子が、ぎ、と派手に軋んだ。
「俺の頭もちいっとはマシになってきたぜ。」
ティエリアに向かって親指を立て、ぱちん、と片目を瞑って睫毛を揺らすと、さっと踵を返して食堂の出口へ爪先を向けた。
一々見送るような殊勝なことなどしない。
先刻まで、周りさえ巻き込むような負のオーラを散らしていた男の気配が消えたのを背中で感じ取り、ティエリアは1人、胸に積もった重たい空気を長く長く吐き出した。
体を椅子の背もたれに預け、天井に視線をあげる。
シミひとつなく、つん、と澄ました一面の純白に、見下されているような気さえして、腹の底から嘲笑が込み上げてくる。
「自分でも操作仕切れない機械………やはり、人間の心など厄介だ…ヴェーダ……。」
(それでも、あの男に必要なのはこの手ではないと、あの日知ってしまったのだ。)
「………ライバルの背中を押してやることになるとは…な。」
誰にも届かない記号の羅列は嗤い声に混じり、フライパンの上のバターより容易く溶けていった。
〔to be continue... 〕