「、……っふ………」
頭の芯が焼き切れる直前、見計らったように唇が離れる。
皮膚の表面を撫ぜる風が無性に冷たく感じる一瞬。
その僅か数秒だけ、どこか不安に苛まれる。
それが、人恋しいということなのだと、教えてくれたのは彼だ。
もう1度――そう思うと同時、どく、喉の奥が緩く鼓動するように疼いた。
「…ん……?」
「何?」
「………んー…いえ…」
一瞬感じた違和感に、アレルヤは数本の指先でするりと喉の隆起を撫ぜて、首を振った。
* *
「口開けて」
林檎すら丸飲みできそうな程開かれた口腔の奥を、ライトが舐める。
光を受けて、ごく、と震える咽頭に視線を注ぎながら、
「ううむ…少し赤いが、これと言って異常は無い」
金髪の医師が呻った。
人差し指でサングラスを持ち上げる仕草も含め一見胡散臭い風体だが、知識も腕も信頼に値する男だ。
その医師が匙を投げたのだから、アレルヤも俯くしかない。
心の内で「そうですか」と呟き、唇を結んだ。
「痛まないかね」
問うた医師に、首を振って答える。
痛みは殆どない。
それなのに、なぜ――声が、
「声が出ないのは、君の心が原因かもしれないな」
そう。
昨夜から突然、声が出なくなった。
喋り方を忘れてしまった訳ではない。
ただ、喋ろうとして、舌を唇を動かせど、音が吐息に掠れるのだ。
喉に感じるのは、痛みではなく漠然とした違和感。
風邪でも引いたのだろうかと、こうしてメディカルルームを訪ねたものの、医師が首をひねる結果に終わってしまった。
心の揺らぎで、声が出なくなる?
アレルヤも、目の前の男に釣られるように頭を傾げる。
自分がそれ程デリケートだったなんて、知らなかった。
それに――、
胸にそっと掌を当ててみるものの、肉体に表出し得るに値する精神的ダメージに思い当たる節はない。
確かに、稀代のテロリストとして荷が重すぎる鉄槌を下すことには気が引けた。
だが、それでも分身と2人きり、行く当てもなかったあの頃よりはずっと良いと、アレルヤは思う。
何よりここには彼が居る。
眠れない夜はそっと肩を抱き悪夢を噛み砕いてくれる、濃い栗色の獏。
その腕に包まれ、初めて他人の体温を心地良いと思った。
――…ロックオン。
閉じた口の中、彼の名を舌先で絵取る。
途端に、つかえた違和感がぐっと体積を増した。
苦しい。けれど、厭ではない、不思議な感覚。
「……とにかく、少し様子を見てみるべきだな」
切り揃えられた金髪を揺らして、
「ドクターとして役に立てなくてすまないが…」申し訳なさそうに小さく肩を竦めた医師に、アレルヤは控え目な笑顔と会釈で感謝を伝えて立ち上がると、メディカルルームを後にする。
廊下に出ると、こちらへ近づく2つの人影が視界に飛び込んできた。
「よぉ、アレルヤ」
片方がにこやかに手を挙げて寄越す。
件のロックオン――と、
「まだ出撃の準備をしていないのか」
神経質そうに端正な顔をしかめるティエリアだった。
「…………」
眉尻を下げて苦笑いを返したアレルヤに、紅い眸が、き、と細くなる。
「本当にはっきりしない男だ」苛立ったように足が踏み鳴らされた。
「まだ少し余裕があるからな」
まあまあ、と宥めるロックオンへと舌打ちを見舞ったティエリアは、アレルヤの相手を諦め、
「俺は先に行く」
とん、と床を蹴った。
「ティエリア、お前さんも少しはミルク飲んでカルシウム取った方がいいぜ」
揶揄めいたトーンで背を追ったロックオンの台詞を受け、菫色が空気を含んだように逆立ったが、振り返ろうとはせず角を曲がって行く。
「ったく、元気だな」
悪戯を共有するように含み笑いを向けた彼に、アレルヤは、ふふ、と息を漏らした。
ロックオンと2人、取り残された。
僅かの沈黙が流れる。
また、だ。
また――疼く。
違和感が、膨らむ。
「…………っ!?」
瞬間、アレルヤの肩がびくんと跳ねた。
前触れもなく滑らかなグローブに髪を梳かれた所為だ。
「なあ、」
数回指が滑った。擽ったい。
「何かあったのなら、いつでも言ってくれよ」
はっと吃驚して見つめた先、翡翠が優しく眇められた。
「昨日から調子悪そうだった」
どうして。
どうして、彼はこんなにも。
広くて、大きくて、
温かい。
つん、と鼻が痺れると共に、限界まで育った塊が、せり上がり溢れ出す感覚に、アレルヤは思わず両の掌を交差するようにして喉を庇った。
出る。
半開きになった唇の狭間から、えずくように、押し出されたのは、
吐息混じりの――…、
「………――好き、です」
箍が昇華されてしまえば、後はもう、ひたすらに。
ぼろぼろと止め処なく流れる。
今度はロックオンが眸を丸くし、すぐに、くしゃりと破顔する。
誰が通るか分からない廊下で人目を憚る余裕すらなく、衝動に突き動かされるまま、頬に雫の跡を描きながら幾度も告げられる言葉を、腕の中へ封じ込めた。
胸元がアレルヤの漏らす想いで濡れそぼってゆくことさえ、酷く愛しく感じた。
* *
ロックオンが「落ち着いたか?」と穏やかな声をかけると、
「ええ」
アレルヤは、気恥ずかしさに身を小さく縮めて頷いた。
すっかり消えてしまった、喉の違和感。
その原因は、まさかあの名医も想像し得ないだろう。
初めて与えられた安堵に頭も身体も追いつかない内、心中に留めて置くには大きすぎる程まで育ってしまっていた尊い感情が、出口を求めて喉元で凝り固まっていたなんて。
まさに、「声も出ないほどの幸せ」とでも言うべきかと、アレルヤはくすくす笑った。
こんなに甘い病など、まるきりファンタジーだ。
「そろそろ、準備して来ないと、またティエリアの血圧を上げるぜ」
ぽん、と背中を叩いたロックオンが、何かに気づいたように「そう言えば、」と呟く。
「結局、元気がなかった訳を聞いてなかったな」
「ああ……、」
アレルヤは閉じた瞼をゆったりと開き、言う。
「キャンディーを、飲み込んでしまって」
「キャンディー?」
「つっかえていたけど、ようやく、」
溶けた。
甘さだけ残して。
〔fin 〕