穏やかなるB、そしてD

目が覚めると、

飢えていた。

俺は、寝返りをうち腹ばいになると、おもむろに手を伸ばす。
中指に触れた塊を荒い動きで掴み、その表面に、かぷ、と歯を立てた。
小麦と塩を捏ねただけの質素な食事パンは、テーブルの上に昨晩から放っておいた所為で、乾ききってしまっていて ――、例えばレストランで出されたとしたら、誰もが眉を顰めて金を落とすことを拒んだだろう。
しかし、味にしろ食感にしろ、そんなもの、どうでもよかった。
ただ、空腹を満たす事さえできれば。
がつがつ貪ると、口中の水分が奪われ噎せ返りそうになり、今度は水を引き寄せる。
ボトルに唇を僅か付け、煽る。
急に傾けられたボトルから勢いよく流れ出た液体は、嚥下するより速く、口の端から幾筋か伝って溢れた。

僅か口にできる物達は、あっと言う間に、平らげてしまう。

まだ、
足りない。
空腹だ。
腸が叫ぶ。

俺は、小麦の香りの残る爪を噛んだ。

この不快な飢えが産み出される訳を、俺は知らない。
否、寧ろ ―― 不快なのは、理由が分からない、それゆえか。


【 穏やかなるB、そしてD 】


モスグリーンのTシャツの袖にしなやかな腕を通し、ボトムスのジッパーを上げると、仕上げに軽く引っ掛けたベストのファーを整えて、くしゃりと散らかった濃いカフェオレ色の襟足を首筋に沿って流した。
そのまま、足元に絡みつくパイロットスーツを蹴り上げ右手でキャッチする。
無造作に丸めてロッカーに放り込むと、窮屈だと言わんばかりに再び身体を伸ばそうとするそれを押し留めるように、急いで扉を閉めた。
「皺にならない素材で良かったぜ」 ―― とは、彼、ロックオンが、ロッカールームを背にして一歩踏み出しながら、心の内で独りごちた言葉だ。
柔らかい革のグローブで自慢の手の平を包みながら、飾り気の無い真っ白な廊下を滑るように進むと、戦闘の粉塵が洗われていくような錯覚を覚える。
束の間の日常へと戻る感覚。
お蔭で、まだ、人間らしい顔も忘れずに居られる。
ロックオンは、噛み合わせた歯列の隙間から自嘲めく笑みを漏らした。
「ふー……やっと一息つけるな」
足早に戻った自室の扉に向かって1つ呟き、ロックを解除しようと電子盤にかけた指を、ふと止める。
それは、すでに、開かれていた。
ロックオンは驚きの表情も浮かべず、「ああ」と心の内で小さく納得しながら、呆気なく口を開いた部屋の中へ踏み込む。
「来てたのか、……っと、暗いな」
ロックオンのプライベートタイムへの招待状を持っているのは、ただ1人(否、正確には2人と言うべきか) ―― だから、さして驚きもしなかった訳だが、しかし、彼が部屋の主の帰りを待っているにしては真っ暗なままの部屋に、そこで初めて瞠目した。
虹彩を絞り、じ、と瞳を凝らすと、ベッドの脇に蹲る人影が見え、ロックオンは眉を片方上げて、訝しみながら声を投げ掛ける。
「電気点けても良かったんだぞ?」
さて、
今日の女神が湖から引っ張り上げるのは、金の斧と銀の斧、"どっち"だ…――?
「…………ロック、オン……」
応えたのは、夜のとばりに降り注ぐ星の囁きに似た、穏やかな声音。
「アレルヤ、か」
銀の、斧。
ロックオンが頷くと同時に、微かに肩を震わせたその人影はむくりと起き上がり、ゆらゆら覚束ない仕草で身体を寄せて来た。
「どうした?」
薄闇の中、覗き込むようにロックオンが問うと、彼は視線を避け俯いて、瞬間沈黙した後、天に恩恵を請う者の如く、双の腕を、ぐ、と、差し出し、ロックオンの広い背に回した。
「……おかえりなさい…」
待ちわびた胸板の温かさをじっくり味わうように頬を擦りつけ、甘さの滲む言葉を落とす。いつになく積極的なアレルヤの様子に、飼い主の帰りを尻尾を振って喜び飛びつく犬を重ねたロックオンは、
「何とも熱い歓迎だな」
そう笑いながら、深緑の髪を梳くように撫ぜた。
「―― ………ねぇ、ロックオン、お腹が空いたんだ」
強引なほどのアプローチに加え、熱を帯びて上擦った訴えに、「酔っ払ってでもいるのか」と、ロックオンの顔に貼りついた笑みは、困惑の失笑に色を変え始めた。
「ああ……何か貰ってきてやろうか?」
戸惑いながらも尋ねたが、アレルヤはゆったりかぶりを振る。
「……これ…で、いい…」
「っ……アレ、ル…ヤ……!?」
顔を埋めてロックオンの纏う空気を肺一杯に吸い込みながら、リストバンドが巻き付いた片腕が滑り落ちる。
ロックオンの中心を暴こうと悪戯に蠢く指。
アレルヤは崩れるようにしゃがみ込んで顔を近づけた。
布を隔ててすら感じる、熱い吐息は ――、幻想か。
1度瞼を閉じ、しかし、金具が上げた叫び声に、はっと現実へ引き戻される。
きっと、酔ったような彼と閉め切られた部屋の、籠もった空気にあてられたのだ。
くらくらと揺れる己の意識を、水面に浮かべて流してしまわぬよう、無理矢理にでも再び唇を余裕の笑みで彩り、
「こーら」
ぱしん、と羽根が触れるほど軽やかにアレルヤの手を払った。
「まあ、落ち着けって。お前さんらしくないぞ」
落ち着け ―― それは、殆ど自身への言葉だ。
それでも、彼は俯いたまま。
真意が掴めない。
と、
「………どうして、」
「あ?」
アレルヤの低い呻きに、応えてロックオンが首を傾げ、カフェオレ色の髪の束がふわりと踊った。
「どうして、貴方は僕を抱いてくれないの?」
「な、に……?」
見開いた瞳の中でやっと顔を上げた彼と視線を絡ませ、ロックオンは小さく溜め息を吐いた。
「……おかしいと思ったぜ」
ロックオンが膝を折り、額を摺り寄せるように覗き込むと、彼は微かに身じろいだ。
穏やかな雰囲気と、それに似つかわしくない強引なまでのスキンシップは、嘘のようになりを潜め、有刺鉄線のような危うさがアシンメトリーな前髪から覗く金色に宿って、彼を包んだ。
その誰しもへ平等に向けられる凛とした殺気 ―― 否、プライドは、凄まじい色気でもあると、ロックオンは思う。他者に触れられることを拒む皮を一枚剥ぎ取ってしまえば、内側に滴る血肉は、容易く熱を分け与えてくれることを、知っていたからだ。
ロックオンにだけ味わうことを赦された、馨しい美味。
「あんなにシても足りないのか?……ハレルヤ」
昨夜ミッションに出る前にも交わした体温を思い返しながら、"らしくないアレルヤ"が、ハレルヤの悪ふざけだと分かったロックオンは、少々の余裕を取り戻し、揶揄めいた口調で彼の深緑の髪を払い頬を撫ぜた。
「……ちげェよ」
ハレルヤは、毛を逆立てた猫が威嚇するように棘を含んだ息で鳴いた。
「どうして、てめェは、"アレルヤ"を抱かないんだっつってんだよ」
「はああ?」
思わず素っ頓狂で間延びした声を漏らしてしまった。
「折角"アレルヤごっこ"、してやったんだぜ?その間に抱けばいいものを」
ハレルヤは、理解に苦しむ台詞を吐き捨てながら、理不尽な舌打ちを浴びせる。
確かに、ロックオンはハレルヤを抱いても、アレルヤと所謂そういう行為をしたことはない。しようと思ったこともない。
同じ身体でも、ハレルヤとアレルヤは別だと、ごく自然に割り切っていた。
それを今さら、アレルヤを抱けとは一体どういう了見だ。
責め立てられる理由に、思い当たる節など無く、ロックオンは金の瞳を真っ向から見据え、奥に横たわっているであろう本意を探る。
ハレルヤは幾度か睫毛を踊らせ、そして、気高い彼にしては珍しく消え入りそうに、ぽつんと言った。
「……アレルヤは、てめェのコトが好きなんだぜ」
馬鹿だな、とロックオンは舌には乗せずに返した。
―― そんなこと。
本当はずっと、分かっていた。
ロックオンも ――、恐らく魂の最も近い場所に寄り添うハレルヤは、それ以上に。
あえて確認などしなかったのは、誰も望まないことだと、それも、分かっていたから。
違う。
ただ、面倒くさかったのかもしれない。
最も脆い立ち位置に誰が居るかなど、目を向けたこともなかった。
彼がどれ程アレルヤを深く想っているかということも。
漸く合点がいったと、ロックオンは緩慢な動きで唇の端を持ち上げた。
「アレルヤより先に幸せになるのが怖いか?」
「……幸せになるべきは、アレルヤだ」
女神の洗礼を受けた、優しい優しいアレルヤ。
ハレルヤは、他人の幸せを願うことこそ稚拙で勝手な押し付けに他ならないと、初めて知った。それでも止められないのは、アレルヤへの愛よりも畏怖に似た想い。
ハレルヤのそれを知ってか知らずか、ロックオンは頷いた。
「ああ、そうだな。アレルヤは、幸せになるべきだぜ」
だから、俺からの愛情は注げないのだと、ロックオンはハレルヤには聞こえないように呟き、ハレルヤの顎を、指先で、くい、と上向かせる。
「それなら、お前さんは?」
「俺は、アレルヤの陰だ」
彼は、至極当然と言わんばかりの表情で吐いた。
気高くあるべきハレルヤが、ともすれば一種の宗教とも単なる依存とも取れる、自身が掲げた絶対的な光を盾にして己を貶める姿に、背がぞくりと粟立つのを感じた。
渦巻いた愛しさが胃を逆流しそうになるのを、唾を呑み込み抑える。
「ハレルヤって、実はとんだマゾヒストだろ」
嘲るでもなく笑ったロックオンの言葉に、ハレルヤは、き、と睨み返し、美しい牙を取り戻す。
そうこねぇとな。
ロックオンは微笑を湛えたまま、
「アレルヤの幸せは、きっと神さんに約束されてる」
根拠も何もないハレルヤのエゴを汲んでそう言ってやる。
そうして、まだ、続ける。
「それなら、お前さんの幸せは俺が約束してやるさ。未来なんて分からねぇから、今、この一瞬だけでもな。存分に幸せを感じられるように」
「……適当なこと言ってんじゃねェよ」
その通り、実に適当だと、ロックオンは自身でも思った。
適当だ ――、しかし、それでも、欲しい言葉のくせに、と。
「――…んっとに、大層な傷の舐め合いだよなァ」
どこへ向けるともない、憤りと、淋しさと虚しさと、嬉しさと、そのどれでもない色の混じった金を、眩しそうに細めて、ハレルヤが独りごちた。
「そうだな。極上の舐め合いだ」


* *


ぐちぐちと潤んだ傷は、甘すぎる。
朝が来るたび、また、充たされることのない空腹に苛まれることすら、心地良く思えるくらいに。
その為に、今日も自ら心を掻き毟って生傷を絶やさずにいる。
「本当に、俺は、相当な ――……」
「そう言えば、お腹空いたって。コレ、食べてくれるんだよな?」
ハレルヤの語尾を打ち消すように、ロックオンはいつもの調子で、企む子どものように笑んだ。その滑らかな質感のグローブに後頭部を摩られ下へ導かれながら、ハレルヤは、ふん、と鼻を鳴らして唇を歪めた。
「腹減ってんのはてめェの方じゃねェのか」
「ああ、ミッションが終わって腹ペコだぜ。美味いモノ食わしてくれよ」
「バーカ。それは、お前ェがどう味わうか、だぜ」


〔 fin 〕

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