gold Arrow


大理石の浴場で、頭からざばざばと冷水を被る。
「はあ…っくそ……。」
ゆるやかにウェーブした髪が頬にへばり付き、顎を伝って雫が、ぽたり、と足元に垂れて水たまりをつくった。
肌を突き刺すような冷たい水を幾度も浴びてなお、全身を包む火照りは一向に冷めようとせず、俺の脳裏には、あの夜の月光に浮かんだ穏やかな寝顔が、これっぽっちも彩を変えず住み着いたままだった。
あれから丸2日も経つというのに、この有様は何だ。
呻きながら頭を振ると、飛沫が光の珠になって散った。
先刻も戦いの女神に、すれ違いざま、「ロックオン、何かあったの?あなた、あのミッションから変よ」と、彼女が好んで飲むウィスキーにも似た深い茶の瞳を細めて、揶揄するように笑われたところだ。
多くの時間、欠伸を噛み殺して過ごす、退屈な神々にとって、艶めいたゴシップは格好の暇潰しになる。
そんな餌になってたまるかと、俺は、ミス・スメラギの追究を苦々しい愛想笑いでかわしたつもりだが、勘のいい彼女のことだ。気づかれちまったかもな。
はは、と笑ってみても、それはすぐに熱い息の塊に変わる。
「……会いたいぜ。」
あの夜から何度この言葉を呟いただろう。
だが、もう1度でも近づいてしまえば、きっと俺は、あの青年をこの腕にかき抱いて、彼の全てを自分のものにしてしまいたくなるに違いない。
神が人間にその姿を見られることはご法度なのに、そんなことできねぇよな。
「いや、待てよ。」
ってことは、つまりだ。
姿さえ見られなけりゃ…、いいのか。
く、と自嘲めいた笑みに唇の端が歪んだ。
金の矢の効果なんて、実のところ、きっと切欠にすぎないはずなのに。
「俺ってこんなに馬鹿だったんだな。」
ニンフ達は放っておいても寄ってくるし、遊びの相手には困らなかった。
それに、色恋沙汰に熱くなるのなんて柄じゃねぇと思ってた。
本気の恋ってやつがこんなに厄介だったなんて知らなかったぜ。
築き上げてきた、余裕のある男像も台無しだな。
まったく。

* *

「よぉ。」
「…そ…その声…、一昨日の……!?ひ、人を呼び……」
闇が広がるのを待って、再び窓辺に降りる。
こちらの姿を見せることができないということはつまり、闇の中、彼の顔を見ることもできないのだが、その纏う空気の温かさを感じるだけで心地よかった。
それに、気配だけでも相手の大まかな動きなんて結構分かるもんだぜ。
ただ、彼の方は、見も知らぬ ―― そもそも姿も見えない ―― 男が、しかも、窓から侵入して来たのだから、当たり前ではあるが、心中穏やかではないようで。
震える言葉で、警戒心を顕わにする。
すぐに悲鳴をあげない分、思っていたより気丈なのかもしれないな。
「待ってくれ。少しだけでいい。話を聞いてくれないか。」
「………」
俺の蕩々とした声に、惑うように視線を彷徨わせる気配がする。
今日は挨拶だけにしておくか。
人間には掴みが肝心だ。
親しみやすいように。
ユーモアたっぷりに。
かつ、微笑むように優しく。
「俺は、お前さんに一目惚れしちまった、ちっぽけなただの男だ。」
舞台で演じる喜劇役者のように大きく手を開いて部屋を歩きながら、おどけてみせる。
「今宵はお近づきのしるしに贈り物を。」
大仰なお辞儀をし、立ち尽くす青年の手を取ると、甲にくちづけを落とした。
突然触れた感覚に、青年の肩がびくんと揺れて、
「…なッ……え…?」
しかし、すぐに、俺によって握り込まれグーの形にされた自らの手に、疑問符を吐き出す。
彼の手の中には、とっておきの贈り物を仕込んでやった。
だけどまだ開いちゃいけないぜ。
光は少しで消えちまうけど、目も眩むような目映い贈り物だからな。
「俺はシャイでね。まだ顔を見せる勇気はないんだ。だから、俺が出て行ってから手を開いてくれるか?」
青年は「はぁ」と間抜けな返事を寄越した。
本当に、一々かわいいよなぁ。
まいったぜ。
俺に残されてるちっぽけな理性に感謝してくれよ。

* *

「よぉ。」
お月さんが一巡してまた顔を見せると、俺は懲りずに青年のもとを訪ねた。
「あ……」
へぇ。今日は然程驚きもしないんだな。
「あの。昨晩は…これ、ありがとうございました。」
「ロックン キョウモキタ キョウモキタ」
青年の開いた手のひらの上で、小さな球体がころん ころんと転がりながら、ぎこちない高音を発した。
「気に入ってもらえたか?」
「ええ、話し相手になってくれて。でも、これは一体…?」
「そいつは、星だ。空で光ってる星。星達とは普段から仲良くしてるからな。小さいやつをちょいと空から拝借して、話せるように魔法をかけておいたんだ。」
空を指して、ピン、と立てた人差し指を、「魔法」と言いながらくるりと回してみせる。
青年は瞼をゆっくりと瞬かせると、俺がペラペラ話す夢物語のようなストーリーに、口元を手で押さえて、くす、と小さく笑った。
「星なんてロマンティックなもの、プレゼントされたの初めてです。そう言えば、戴いたときの輝きは一晩で消えてしまいましたけど……。」
「ああ、人間の手に触れたらしばらくで光は消えるんだ。ほら、梟やヨタカやらが地上を空と間違えちまったら大変だろ。」
「ツイラク ツイラク」
「なるほど。」
にこりと頷いた青年に、
「星だとか、魔法だとか、馬鹿にせずに信じるのか?」
俺が、「嘘は吐いちゃいねぇが、珍しい人間だな」と片方の眉だけ上げると、彼は、ふ、と目線を伏せて呟く。
「退屈してたんです。」
退屈ねぇ。
平和な証拠だけどな。
まぁ、それが続くと厭になるのは人間も神も同じか。
「司祭の父も子煩悩な母も、過保護で僕をあまり家から出してくれない。窓から見える決まって同じ日常にも飽き飽きしてた。」
彼の唇の端が歪み、軽い溜め息の後、自嘲めいた、それでいて明るい笑みが零れた。
「始めこそ驚きましたけど、おとぎ話みたいな夢でも見てるのかなって。それなら、醒めなくてもいい。つまらない現実よりずっと、わくわくします。」
まるで絵本を読んでいる子どもみたいだな。
それに、と悪戯っぽく軽い口調になって、彼のモノローグは続いた。
「貴方は本当に、窓辺にやって来ては少し話すだけのようだし。」
はは。
お前さんを俺のものにしたいって本音を理性で抑えて、1段1段、ステップを踏んでるだけだがな。少しでも打ち解けてくれたのは嬉しいぜ。
ああ、それから ――、
「聞きそびれてたお前さんの名前、聞いてもいいか?」
「僕の名前は……、アレルヤ。」
「アレルヤ。」
綺麗な響きだ。
俺は唇をそっと動かして1文字ずつ綴った。

アレルヤ。

それじゃ、今日はおやすみ。アレルヤ。
これから見る本当の夢も、楽しいお話だといいな。


to be continue.